背後に、妙な殺気を感じた。 「ギ―――ぃ、ブ――…、」 わずか遠くから聞こえてくる、この、声は。ギーブルは思わず体を強ばらせ、素早く後ろを振り返った。しかし。 「なんや?」 そこには誰もいない。うっすらと雪の積もった石畳と、その両脇に並び立つ煉瓦造りの家々が見えるばかりだ。先ほどの殺気と声は気のせいか。そう思って肩をすくめた、その時。 「ルぅ――――――!!!!」 「のわー!!!!!!!!」 空から少女が降ってきた。直後、ギーブルの顔面に少女の足裏がめり込む。 どさりと音を立てて、ギーブルの体が後ろ向きに倒れる。その傍らに、たった今ギーブルに空中跳び蹴りを見舞った少女は、軽やかに着地した。そして満足そうに両手を上げ、決めのポーズを取る。 「10.0〜!」 罪悪感の欠片も感じられない、底抜けに明るい声。その声と姿を確認したギーブルは、勢いよく起きあがると、吐く息も白く、相手を思い切り怒鳴りつけてやった。 「イリス! おまえ、人の顔をなんやと思ってるねん!」 「んもぅ、大きな声出さないでよ。ぎゃあぎゃあとうるさい男はもてないわよ、ギーブル。あんたの顔の一つや二つ、今さら減るもんでもないでしょ」 両手で耳を塞ぎながら、少女――イリスはけろりとそんなことを言ってのける。それから、ちなみにと付け加えた。 「見事なジャンプだったでしょ? あそこから飛んできたのよ。あんたを待ち伏せするのに、随分と体が冷えちゃった」 彼女の指さす先には、不自然なくらいに積み上げられた木箱の塔。わざわざ高い場所から登場する為に、一人で箱を上げ下げして跳躍台を作ったと見える。こういうことへの労力はいささかも惜しまない少女、それがイリスだ。 そんなことよりも、彼女が自分を待ち伏せていた理由は何だろう。果たし試合の申し込みでもなかろうし、ましてや闇討ち――イリスならやりかねない――でもないと思いたい。イリスたち三人の子どもの保護者として旅に同行しているギーブルは、感謝をされる覚えはあっても、強襲をかけられる謂われはない。憮然とした顔で、彼女の演出がかった登場の理由を考えていると、当の本人が、小首を傾げてギーブルを上目遣いに見上げてきた。 「ねぇねぇ、ギーブル。今日が何の日だか知ってる?」 「はぁ?」 「その様子じゃ、やっぱり今までこの行事と縁遠い人生を歩んできたのね。あぁかわいそう、なんてかわいそうな三十路男なのかしら」 首を振り振り溜息をつくイリスに、ギーブルは怪訝な視線を送る。何の話なのだ、いったい。 「イリス……、悪いけど、ワイにはちっとも話が見えへんぞ。行事って、何の…」 その言葉が言い終わらないうちに、イリスは右手の人差し指をギーブルの鼻先にびしりと突き出した。左手はその華奢な腰に当てている。まるでどこかの探偵のような決めポーズだが、足下はしっかりと爪先立ちだ。長身のギーブルと小柄なイリスの身長差のおかげで、そうしなければイリスの指はギーブルの鼻先に届かないらしい。 「今日はバレンタイン・デーよ、ギーブル! 世界中のチョコレート店がこぞって集客をもくろむ、資本主義社会の生み出した強欲かつ素晴らしい行事の日よ!」 小柄だがその内に秘めた野心や行動力には際限のない少女イリスは、依然としてギーブルに指を突きつけたまま、声高に資本主義とバレンタインの因果関係を叫ぶ。毎度のことながら、いったいどこでそんな思想を仕入れてくるのだろう。 「バレンタイン・デーには好きな人にチョコレートを贈るものなのよ。まさかギーブル、知らないの?」 それくらいはギーブルも聞いたことがある。あるのだが。イリスが自分の前に登場した理由にようやく思い至り、ギーブルは軽く狼狽する。イリスがわざわざその行事についてギーブルに切り出すということは、すなわち。おいおいまさか、この展開は。 心持ち胸をどきどきとさせながら、ギーブルはイリスの様子を伺う。何といっても相手はまだ子ども。当然のことながらギーブルの守備範囲ではないのだが、しかし。 このような状況に免疫のないギーブルには、「相手を傷つけないように拒否する」という行為がひどく難易度の高いものに思えた。 「イリス、ワイは……」 やや目を伏せて言葉を紡ごうとしたギーブルの前に、にゅっと突き出されたものがある。 ほんの一呼吸分の間。そして。 「なんや、この手は」 ギーブルは半眼になって、自分の鼻先に広げられた小さな両手を見下ろした。 「だーかーらー! 今日はバレンタインなんだってば。ギーブル、私たちにチョコくれるんでしょ?」 「あほか! なんでやねん! そもそもバレンタインは、女が男に贈り物をするんじゃ!」 「あっひどい、男女差別」 依然として両の掌を広げたまま、イリスは頬を膨らませて見せた。 「ツェレムはちゃんと、チョコレートくれたわよ。バレンタインのことは知らなかったみたいだけど、説明したら、にっこり笑って……」 「なんじゃとー!!」 イリスの言葉を遮って、ギーブルは絶叫する。聞き捨てならない情報だ。あのツェレムが贈り物をしただと? しかも「にっこり笑って」? 「そんなん、ワイでももらったことないぞ…。なんでおまえらには優しいんや、あいつ…」 一人でおろおろと呟き始めた大きな人間を見上げ、イリスは興ざめした顔になる。ギーブルがツェレムに執心しているのは周知の事実だが、まさか本当に、「そういう意味で」好意を抱いているとでも言うのだろうか。相手は性別不詳、人間かどうかすらも怪しい存在なのに。 「大人って、不毛ね」 半ば哀れみを込めて、イリスは目の前で悶絶する男に生暖かい視線を送った。そしてくるりと背を向けると、既にギーブルのことは頭から追い出して、次なる目標へと向かう。 「さぁて、モリオンにはやっぱり、家族人質作戦が有効かしら」 などと、不穏な言葉をけろりと呟きながら。 |
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(2008.2 オガチョ) |
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