番外編 「おやつ食ってたのよ」
By 樹流





 例え便宜上与えられただけの階級とは言っても、自分はそれなりの位置に居る軍人であり、必要に迫られれば何の恨みも面識もない人間を殺さなければならない。
 そればかりか、時と場合によっては、親しくしていた人間さえ殺す必要がある。
 到底治療できない程の重傷を負い、生かしておく方が苦痛であるとか。そこまでの怪我でなくとも、連れて歩くには困難で、かといって後方送りにするには距離も時間も人手もかかってしまい、どうしようもない状況であるとか。
 そういう事に耐える覚悟はして此処への赴任を承諾したし、実際幾度かそうしてきた。
 彼らは恐らく、樹という個人に対して恨みなど寄越さないだろう。
 自分も一々謝罪や後悔をした事も無い。
 こんな時代に医師なんていう職業を選んだのは自分だ。
 彼女もそうだろう。
 樹がアシュレイを助手として呼んだのは、彼女にはそれが出来るだろうと踏んだからだ。そしてその予想通りに彼女は働いている。
 腹に酷い傷を負った上、腕と脚を片方ずつ失ってのた打ち回る年上の兵士に、殆ど躊躇わずに致死量のモルヒネを打ち、安らかとは言えないまでも楽な道を示してやっていた。
 兵士が息を引き取るまで、暴れる身体を押さえ込んでいた衛生兵が一瞬躊躇ったのは辛いからかと訊ねたところ、辛いなんて少しも思わなかった、ただモルヒネの残りが少なくなってきたから兵士の体格と残量を計算し、何処まで投与量を減らしても即死っぽく死なせてやれるかを考えていたのだと煙草を旨そうにふかしながら答えたらしい。
「そもそも痛み止めに使うんだから、死ぬのに余分に使っちゃもったいないでしょ。死んだ奴の血液漉せば少しでも戻ってくるなら話は別だけど…って……彼女半笑いでしたよ」
 全笑いでなく半笑い。
 しかも即死ではなく『即死っぽく』。
 衛生兵は恐ろしい女性だと言っていたが、樹はそれこそ彼女らしいと感心する。
 彼女は基本的にアバウトで不真面目で我儘で気儘で、その上自分本位だ。頭と家柄以外に褒められるところは殆ど無い。それなりに優秀な医師でなければ、もう政略結婚くらいにしか使い道は無いどうしようも無い女だ。
 しかし彼女は、政略結婚に使える程の価値が自分にあることを充分理解している。
 なおさら最悪だ。
 自分ならそんな女を嫁にするなんて全力で辞退する。いや、彼女なら婿養子を貰う事になるだろう。もっと厭だ。
 それに彼女と結婚すれば、自分は恋人―――愛人の方が相応しいかもしれない―――の義理の甥になってしまう。彼女ならそれに対して何の不満も疑問も抱かず、今のままの関係を続けさせてくれるだろうが、非常に問題だ。
「ナガレ軍医、会議、終わりましたよ?」
「え? あそう、終わったの」
「…聞いてなかったでしょう…」
 大きく溜息を吐き、書記係をしていた黒髪の中尉はテーブルの上を片付け始める。
「聞いてたよ。また予算がちょっと減ったって? なんだかんだ文句つけても結局おっさん達もアシュに頼るんだ。それならそれで階級くらいやればいいのに」
「仕方ないですよ。助手どのが居ればタダ同然で薬品だの医療器具だのが手に入るんですから」
「伯父が権威ある医者で医療器具の開発者で、おまけに製薬会社の会長の娘なんてのはそうそう居ないからな。しかも二人揃って有り得ないほど彼女を溺愛してるし」
 その権威ある伯父の方が、姪よりも自分の方をより溺愛していることは伏せておいた。
 別に隠したい訳でもないが、相手は地位ある人間だ。余分な情報をわざわざ提供する必要もないだろう。唯でさえ、樹には様々な良くない噂―――所々は真実だが―――が付いて回っている。 
「彼らはアシュが医者としての仕事をするのに困らない様、高価な薬や器具を惜しみなく、勝手に送りつけてくるだけだ」
 大して読むことも無く終わってしまった資料をまとめ、薄荷の匂いのきつい煙草を銜えながら樹は席を立つ。
「あいつが乗り回してるでかいジープ。あれも親父さんからのプレゼントだって知ってたか? 因みに伯父からも同じのが届いた。そっちはありがたく、うちで使わせてもらってるけどな」
 気に入りのシルバーのライターで火をつけ、窮屈なネクタイを引き抜いて白衣のポケットにしまう。ついでに糊のきいたシャツのボタンを二つ外すと急に息がしやすくなった様に感じる。首に不必要な圧迫感を与えるだけの薄っぺらい細い布切れに一体なんの意味があるのか、樹には未だによくわからない。少なくとも、着けていたからといって会議が上手く進む事
は無いだろう。
「そんな正真正銘のお嬢様なのに…なんで彼女、此処に居るんですか?」
「俺が呼んだからだよ。じゃあね、おつかれ」
 ひらひらと手を振って書記係に別れを告げると、宿舎へ向かって歩き出す。
 会議室のある棟から自分の部屋へ戻るには、診察室のある棟と入院棟を抜けて行かなければならない。中庭を抜ける事も可能だが、昨日の晩に少し雨が降った所為で所々にまだ水溜りが残っている。
「…ああ…売店寄らなきゃ…」
 そろそろ自分のもアシュレイのも煙草のストックが切れるはずだ。二人の好みの銘柄は同じもので、士官宿舎の売店にしか置いていない。ついでに彼女に飴玉でも買って土産を作ってやろうと思い立ち、樹は今来た道を戻ることにした。
 会議室の前を通り過ぎ、渡り廊下をのんびり歩いていてふと庭の方へ目をやり思わず立ち止まってしまった。
「………何してんだあいつら…」
 これ以上ない位に怪訝な視線の先では小柄な白衣姿と並んで、主に食堂でしか見かけない男がベンチに腰掛けていた。
 こちらに背中を向けた二人の間には微妙な空間があって、そこには何か紙袋が置かれている。
「女医と名物大尉の逢引き…にしちゃ盛り上がってなさ気だな」
 二人は特に何か会話をしている様子も無い。ただアシュレイは煙草を吸っているらしく、時々薄く煙が上がっている。
 ―――まあ盛り上がってもらっても困るけど。
 樹はつぶやいて二人の居るベンチへと方向を変える。さくさくと芝生を踏む音にも二人は全く気付かない。特に略式の制服に身を包んだ男、ロウ・ゲイラー大尉の背中はがら空きだ。
 それでも最後の五歩はゆっくり進んで足音を消し、そっとアシュレイの耳許に口を寄せる。それから出来るだけ低くした上に多少の吐息を混ぜたスペシャルボイスで囁きかけた。
「…俺を捨てんの、アシュ?」
 街の女にやれば―――絶対やらないが―――大多数が昇天してしまいそうなセクシー声に彼女は何の反応も示さず、細く煙を吐きつつ呆れた様に振り返る。
「樹、あんた前頭葉に寄生虫でも湧いたの? 脳ごと摘出してあげましょうか、麻酔なしで」
「やってもいいけど、思考力無くしてアホになった俺の面倒見ろよ?」
 助手で女医の物騒すぎる冗談をさらりと流し、隣の男にごく自然な笑顔を向ける。
「ゲイラー大尉、ごきげんよう」
 赴任初日にして絶大な人気を得る原因の一つとなった樹の笑顔を間近で見ても、ゲイラー大尉の無表情は少しも崩れない。いつもと変わらず口をもぐもぐさせながら会釈をし、間においてあった紙袋を無言で退ける。
 どうやら座れという事らしい。 
「アホで済めば食事排泄ムダ毛処理までくまなくやったげるわ」
「ムダ毛は困るなあ…」
 無意味に長い脚でベンチを跨ぎ、あけてもらった処へ腰掛ける。丁度一人分だ。
「で、女医と軍人が真っ昼間から何してたの」
 いつの間にかフィルタを残して燃え尽きていた煙草をアシュレイの足許の小さなバケツに捨て、女優か高級娼婦の様なやりかたで脚を組む。
「おやつ食ってたのよ。ね、ゲイラー大尉」
「…」
 同意を求められたゲイラーは、こくり、とやはり無言で頷く。
 確かに彼女の膝の上にはハンカチが広げられ、クッキーやチョコレートが置かれている。反対側に居るゲイラーの膝の上には先ほどの紙袋。中には溢れんばかりの菓子類が詰め込まれている。
「……お喋りもせず? それって楽しいのか?」
「結構楽しいわ。老後を体験してるっぽくて」
 指先で弾いて煙草をバケツに捨て、アシュレイはきりんの形をした可愛らしいクッキーを脚から食べる。
 きっと彼女の頭の中には、今この瞬間に脚を吹き飛ばされて絶叫している兵士が居るだなんて事は思いつかないのだろう。
「老後ねえ…」
 二十代前半の独身男女が老後ごっこ。有り得なさすぎる。健全すぎてかえって不健康としか思えない遊び方だ。
「…どうぞ」
 新しい煙草を取り出しかけた樹の前に、静かな声と共に例の紙袋が差し出される。
「え? 老後ごっこに俺も混ざるの?」
「息子役を是非」
 冗談なのかも知れないが、彼の表情は大真面目だ。しかも息子役という事は、アシュレイとゲイラーは夫婦である設定だったらしい。物凄く想像したくない未来だ。
「え〜〜〜。有閑マダムの若くて美形な愛人役じゃないの? 大尉はそれを赦す寛容な夫なの」
 どんな老後の過ごし方だ。しかも冗談でなく、樹は現役で若くて美形な愛人をやっている。恐らくそれを踏まえて、わざと彼女はそう言ったのだろう。
 唯一の救いは、実際の愛人がずっと以前に妻を亡くして現在独身な事だけだ。
 そんな事を知らない親切なゲイラーは、なおも菓子を勧める。
「お好きなものを」
「……ありがとう…お父様」
 何だか急激に多量の体力を消耗した気がして、樹は甘そうなチョコレートバーを貰う事にする。包み紙には何故か笑顔全開の擬人化された豚の絵が印刷されている。何の意味があるのか全く不明だ。
 その豚人間の顔を容赦なく破り、安っぽい色の菓子に齧り付く。その色に違わずに味も割と安っぽいが、取り立てて不味くも無い。中にマシュマロと何かの豆が混ぜ込んであるから栄養価はそこそこ高そうだ。小銭で買える値段である事を考えれば、コストパフォーマンスは悪く無い。
 今度戦場へ付いて行くことがあれば、こういうものも多量に買い込んで持って行こうか。やたら不味い上に大した栄養の無いレーションや味すらしない粥ばかり食わせていては、冗談でなく死ぬ気で働いている兵士達が可哀想だし士気も下がる。労働には報酬が必要だ。
「…」
 気づけば樹も無言で口を動かし、三人の老後ごっこは平和に繰り広げられる。
 その沈黙を破ったのは、意外にも一番熱心に菓子を食べていたゲイラーその人だ。
「ナガレ軍医は格式のある家の方ですか?」
「は?」
「今、お父様、と」
 全く予想もしていなかった彼の言葉に、樹は間抜けな返事を返してしまった。
 此処へ赴任して以来、樹の出自を気にした者など誰も居ない。上層部の人間は言わなくても知っているし、そうで無い者は見掛けや学歴ばかりに気を取られている。言葉遣いでどういう階層の出身かなんて、誰も推測しない。
「樹の家はあたしの家よりずっとお金持ちよ? 実家なんてお城みたいなの」
 恐るべきスピードで膝の上の菓子を食べ終わったアシュレイが煙草に火を点け、呆気に取られている樹の代わりにあっさり回答する。
「余計な事喋るなよ」
「事実を言ったまでよ。大尉知ってる? 樹の正式名って厭になる程長いの。面倒だから『樹・ナガレ』って略して届けを出してるけど、全部書いたらきっと書類からはみ出すわ」
「…その様な方が何故此処に?」
「引き抜きなのよね。優秀な医者が欲しいからって、割と偉い人が直接交渉に来たわ。馬鹿みたいでしょ? 優秀な医者は戦地に居るより普通の病院に居て、新しい治療法でも研究しながら患者を診るのが絶対相応しいもの。どうせどっかの研究所にでも入れて、医者に有るまじき効果を発する何かを開発させるつもりだったんじゃないかしら」
 ある意味機密に当たるだろう事を、次々と喋ってしまう助手の口を慌てて細い手が塞ぐ。
「馬鹿! 喋るなって! 悪いね、ゲイラー大尉。こいつの言う事なんて気にしなくていい。俺はちゃんと考えて、色んな事も全部納得して此処へ来たから」
「もし貴方が戦死なさったら、どなたが家を継がれるのです?」
 口を塞がれてしまった為に煙にむせ、激しく咳き込んでいるアシュレイをちらりと見やり、ゲイラーは更に質問を重ねる。珍しい事に、樹になんらかの興味を抱いているらしい。
「俺は次男だから。それに親父は随分前に死んだから、家は双子の兄が継いでる。奴は結婚相手も決まってるし…。だからもし俺が戦死しても…きっと大丈夫だよ」
 無意識に左手の薬指に嵌った指輪を撫でながら、樹は答える。
「申し訳ありません」
「何? 別に失礼を受けた覚えは無いよ。親父が死んだのも軍や君の所為じゃ無いし、俺だって此処に勤めてる限り、戦死しない保障はどこにも無い。君が謝る必要は何も無い」
「ですが…」
「ん?」
「出来れば貴方には、生きて故郷に帰って欲しいと思います」
 相変わらずつかみどころが無いが、結構いい奴だ。ハルトはいい部下を持っている。
 にっこり笑って最後のチョコレートを口に放り込み、やけに清々しい気持ちで樹は立ち上がる。
「アシュ、そろそろ帰るぞ。おやつの時間はおしまい」
「え〜。もうちょっと居ましょうよ」
「駄目だ。帰ってドゥーマ先生に会議の報告しなきゃ。向こうの売店に寄って煙草と飴玉買ってやるから、お前も仕事に戻れ」
「あ、煙草はさっきありったけ買って、部屋に届けてもらう様に頼んだわ。そこで大尉に会ったの。それに飴玉も沢山分けてもらったからもう要らないわ。ね」
 嬉しそうに白衣のポケットを探って差し出された両手には、様々な色のセロハンに包まれた飴玉が溢れんばかりに乗っている。
「可愛いでしょう」
 平和そうな色の飴玉を眺めるアシュレイの顔は年頃の女性らしく穏やかで、同じポケットに人を死なせる為にも使うモルヒネの小さな壜が縫いこまれているとは到底思えない。ゲイラーだって彼女に飴玉をやったその手で人を殺す事もあるのだろう。
「そうだな。ありがとう、大尉」
「いいえ」
 無表情が常の大尉の表情が少し緩んだように見えたのは、恐らく気のせいだ。
「アシュ、落とさないうちに早くそれ仕舞え、行くぞ。じゃ、大尉、俺達はこれで。アシュ、バケツ忘れんな」
「はあい先生。またね、大尉。ごきげんよう」
 ひらひらと少し荒れた小さな手を振り、灰皿にしていた小さなバケツを持って彼女は歩き出す。
 跳ねる様なその足取りの後を追いながら、樹はふと振り向く。
「大尉、君も帰る場所はあるんだろう?」
「一応…あります」
「なら這ってでも生きて帰れ、俺達はその為に医者をやってる。これは命令だ」
「…ありがとうございます、ナガレ軍医少佐」
 生真面目に敬礼を寄越す大尉にやはり敬礼を返し、樹は歩みを再会する。
 ふわふわと丈の長い白衣を翻しながら前を行く小柄な背中は、何だかとても楽しそうだ。
「転ぶなよ、助手」
「ま〜かせて〜〜〜」
 暢気に跳ね続ける彼女の向こう。渡り廊下にもう一人白衣の人物が現れる。
 厳格で辛辣なシュタイナー少佐の天敵で、自分も多少苦手な上官だ。
「ナガレ少佐、会議はどうでした?」
「そこの踊ってる女医の所為で予算が少し減りました」
「おやおや、それは困りましたねえ」
「え〜。違うわ先生、あたしの父親と伯父の所為よ。叱るならそっちを叱って?」
「そうですか。それはもっと困りますねえ」    
 のほほんとした受け答えに、この若い上司が苦手な理由が少し解った。
 あの人に、ほんの少しだが似ているからだ。
 彼は元気にしているだろうか。しばらく連絡を取っていない。
 会議の報告をして、部屋に戻ったら手紙を書こう。
 貴方に似た医者が居ると書けば、大慌てで此処へ来るだろうか。
 もし来たら、二人の無愛想な友人と、苦手な上司を紹介してやろう。
 ドゥーマの横に並び、彼にするように上目遣いで見上げてみる。
「…どうかしましたか? 少佐」
 眼鏡の奥の眼が、不思議そうに自分を見返す。
「いいえ」
 似ているのは雰囲気だけか。
 でも手紙には似ていると書いておこう。
 下らない決心をした樹は、二人の医者と共に職場へ戻る。
 前線でなくても、銃を使わなくても、自分にとってはそこは戦場と変わらない。
 ただそれは殺すためではなく、生かすための平和な戦場だ。
 例え前線であっても、自分達のテントの中はそうあればいい。
 とっくに背を向けた筈の神様に、樹は祈ってみた。

<了>

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