第3話@ 「カタツムリごっこかな?」
By 樹流
『食堂事件』から数日。
樹の苛々と疲労はピークに達していた。
原因はいくつかあるが、まず「具合が悪いから診て欲しい」と言ってきた赤毛の給仕係、マイヤー上等兵。
彼は実は何処も悪くは無かった。いわゆる仮病。
どうやらハルトに振られた事になってしまっているらしい樹を心配し、励まそうとしての事らしいが仮病はいただけない。
プライベートな時間の樹はのんびりやでやや天然ボケしているが、医師として働いている時は至極真面目な人物だ。
仮病なんてもってのほか。
それだけならまだしも、マイヤーはハルトを酷く詰ったのだ。
「大勢の前で軍医どのを怒鳴りつけて恥をかかせるなんて酷いです」
「シュタイナー少佐には思いやりが足らないんです。きっとみんなそう思ってます」
「だから軍医どのは悪くないです」
彼は自分の階級をわきまえず、上官であるハルトを正面から批難した。個人的な見解だけを延々言い散らかした。
そのマイヤーを樹は年長者として、階級が上の者として諌めた。
自分の立場ををわきまえて物を言え、と。
そうしたら。
何故か泣かれた。
それも子供の様にめそめそ。
少し言葉がきつかったかも知れないが、泣かせるつもりなんてこれっぽっちもなかったというのに。
樹はハルトを思いやりのない人間だと思った事は一度も無いし、酷い事を言われたとも思っていない。
確かにやたら無愛想で、お世辞にも口がいいとは言い難い。身長も高く体格もそれなりに良いから、マイヤーの様に小柄なものから見れば威圧的に見えるだろう。
しかしそれは彼の表面的な部分で、中身は意外と親切で良い奴だと樹は思っている。
例えば、ぼさっとしているとたちまち空きが埋まってしまう食堂での席取りとか。
相談事――それは大概、実に下らなく馬鹿馬鹿しい内容だ――の報酬らしい煙草だとか。
口に合わないからお前にやる、と酒を貰った事もある。合わない割りには減りが多かったその酒は、偶然にも樹の故郷のものでちょっと嬉しかった。
頻繁に薬箱や包帯をくすねていくのを咎めたら、こんな所で保管するよりは俺が使ってやった方がいいと反対に諭され、一応礼のつもりなのか、絶対ばれない上手な居眠りの仕方と会議の抜け方を頼みもしないのに教えてくれた。
因みにそれを実行したらしっかりばれてしまい、同じように居眠りをしていたハルトと二人並んで説教を食らった。
古くから続く上流家庭で大人に囲まれて育ち、学校生活も飛び級のために年上ばかりと過ごした樹は、大声で罵り合う様な喧嘩も怒鳴られるような悪さもした事が無い。
家柄だの何だのを気にせず、冗談を言い合えるような友人も殆ど居なかった。
街の病院に居た頃は、金持ちで家柄の良い樹に取り入ろうとする奴らにうんざりさせられっぱなし。此処の前に赴任したど田舎の小さな中継基地では、この女っぽい外見のせいで散々な目に遭った。
唯一、損得勘定なしで友人らしい関係を持ってきたのは、現在助手にしているアシュレイのみ。
それを寂しいともつまらないとも感じなかったし、友人なんて増えたら増えただけ面倒だとしか思えなかった。
しかし、此処の人間は樹の見た目には注目するものの、近くに娼館や酒場も備えた中規模の街がある為か、変なモーションをかけてくる奴は殆ど居ない。詳しい経歴も上のものしか知らないから、持っている物から『金持ちそうだ』とは思われている様だが、財産をどうこうしようとして近づくものも居ない。
唯、頭も腕も良くて、ちょっと奇麗な顔の変な医者として扱ってくれる。
そんな普通の扱いを受けてみて、友人を増やすのも悪くないと思う事が多くなった。
なのに。
――この顔、好き?
「アホか俺は…」
一体自分はが何を思ってそんな照れ屋な少女みたいな事を言ってしまったのか、実は全く記憶に無い。
ただあの仏頂面が売りのハルト・シュタイナーが、変におろおろしているのがやたら面白かったのは憶えている。
けれど、あんなに怒るなんて思いもしなかった。
「好きじゃねえ、に加えて馬鹿だもんな…。しかも怒鳴るし…」
あれにはこっちが驚いた。
あんな大声を出されるなんて予想もしなかったから、びっくりした樹は一体どう対処したら良いのか解らず黙り込み、そのままのテンションで食堂をのろのろ後にした。
その所為でどうやら樹はハルトに振られた事になっているとか。
あり得ない。
樹には決まった相手が居る。結婚出来ない、子供も出来ない、周りに言って回ることすら出来ない無い無いづくしな関係だが、それでも恋人は恋人だ。そういう人に対しては誠実でなければ。――出来るだけ。
詳しく訊いた事は無いが、どうやらハルトも田舎に恋人が居るらしい。きっと田舎に戻れば、すぐにでも嫁に貰うのだろう。
いくら閉鎖的な状況だからといって、そんな二人がどうこうなる訳がない。
そもそも、ハルトはあらゆる意味で普通の人間だ。
だからこそ、樹から自主的に友人になってみようかなと思えた訳で…。
「……普通…『この顔好き?』なんて言わないよな…そういう奴に…。いやむしろ男同士で…」
迂闊だ。迂闊という言葉ではたりないくらい、迂闊だ。
「あぁぁぁ〜〜」
いい加減、自分の迂闊さ加減に腹が立ってきた。立ち過ぎて逆にヘコむ。
おまけに大事な大事なライターを失くした。
自分の命とアシュレイの貞操の次くらいに大切にしなければならない物なのに。
恐らく食堂での騒動の時に失くしたのだろうが、あれ以来仕事が立て込んで取りに行く暇が無い。
なんだって今このタイミングで、前線から大量の負傷兵が送り返されて来たのか、樹は一瞬誰かの嫌がらせじゃないかと思った位だ。
しかもその負傷兵たちのあいだで、派手な下痢と嘔吐を伴った感冒が発生したのだから、意地悪具合にも手が込んでいる。
その流行りっぷりは、ご婦人たちの新しい化粧法以上の勢いで、広がるのに二日とかからなかった。
慌てて敷地の隅に隔離用のでかいテントを作り、症状の出た者を片っ端からそこへぶち込んで助手のアシュレイと数人の看護兵で看病と治療に取り掛かったが、治りが異様に遅い。
今だって、隔離テントから五十二時間ぶりに宿舎に帰る途中だ。
休暇ではなく、テントの中で殴り書きした書類を清書しに。
助手のアシュレイは今も、あの小さな体で不衛生なテントの中をくるくる動き回って頑張っているだろう。少しでも早く書き上げて、テントに戻ってやりたい。
もうあのライターは食堂には無いだろう。高級品だから誰かが持って行ったかも知れない。
持って行って使ってくれているならまだ良い。使っているのを見つけ出して、頼んで返してもらう事ができる。
運が悪ければ、近くの町の質屋に売り払われたか、娼館のお姐さんへのお土産にされたか…。そうなると取り戻すのは不可能だ。
「……ついてねえ…」
膝を抱えて廊下のど真ん中にしゃがみ込み、小さく背中を丸めながら、樹はちょっとだけ神様を恨んだ。恨みついでに痛くない程度に小突いておいた。
神様なんてとっくに自分の中から消し去ったのに、こういう時だけ使ってしまうのも神頼みとか言うんだろうか。
いやもう、そんな事はどうでも良い。
とにかくハルトへの謝罪と、ライターの捜索と、周囲の誤解を解く事を考えなければ。
それにはまず、あのテントの中の患者たちを治してやる必要がある。
症状はましになってきている気もするが、けれど原因が皆目解らない。そもそも下痢や嘔吐は出すものが無くなればなんとなく治まった様に見える。与えている薬が本当に効いているかどうかはかなり怪しい。投与を変えてみるとか、いっそ一切薬を与えずに様子を見るのはどうだろうか。ずっと中で働いている自分やアシュレイや看護兵の誰も同じ症状を発していないから、感染性の病気では無いはず。だったら原因は細菌や何かではないのかも知れない。感冒だと思っていること自体が、そもそも間違いだったら致命的だ。
――ああ。煙草が吸いたい。そうそう、ライターどうしよう。いやいやそれより先にハルトと話をするべきで。それにはまずこの書類をまとめて上に出さないと駄目で。書類のお供は煙草だ。あのライターは今頃何処にあるんだろう。
もう何が何だかよく解らなくなってきた樹は、ますます丸く小さくなっていく。
「おやおや、ナガレ少佐。ええと………カタツムリごっこかな?」
「きょっ!」
いきなり背後から話しかけられた樹の咽喉から出たのは、小動物じみた音。
「それとも…廊下で書類を書いているのかな?」
「いえ、あの……」
恐る恐る振り向いた先には、心底不思議そうな顔をした金髪眼鏡の上司が立っている。
「すみません…ドゥーマ先生…何でもありません……」
「そう」
へらりと愛想笑いを浮かべて元気なく床から立ち上がった部下の全身を、ドゥーマは素早く観察した。
一瞬で出た結果は『みすぼらしい』。
いつもは奇麗に纏め上げられている自慢の銀髪は、くしゃくしゃのまま首の後ろでひとつに束ねられていて、何故か落ち葉がくっついている。肌も所々がさついていて、全体的に荒れているより変に哀れっぽい。眼の下には薄青い隈。白衣は寧ろ薄茶衣と言った方がしっくりくる位の色をしている。普段から丁寧に切りそろえられているはずの爪は少し伸びていて、沢山の紙切れを握り締めた左手の中指の爪は欠けてすらいた。
「それ、テントの様子のメモですか? ちょっと見せて」
「あ」
了承を得ずに手の中から数枚抜き取って目を走らせたが、そこにはミミズがどこか未開の地の少数民族のダンスを必死で真似た様な、異様としか言いようの無い文字らしき何かがのたくっていた。
「………り…ぷ…ぺ…いや、『ぽ』だ。ぽ……ぽり…? ダメだ、読めない。あ、此処は腸結核ですか。これは…ツ…ス…」
「……」
「暗号解読班でもダメかも知れませんねえ」
「すみません…すぐ清書しますから」
渋い顔でメモを返され、樹は故障した水飲み鳥みたいにうなだれた。
「なるべく早くお願いしますね。提出し終わったら、助手どのと二人、お休みをあげますから」
「え、でも」
「疲れ過ぎると思考力も効率も落ちるからね。それ、明日の朝までには書き終わるでしょう? そうしたら明日と明後日、休んでいいですよ」
朝までと言う事は、昼に出すのでは駄目なのだろう。因みに今の時間、食堂では夕飯の片づけが終わる頃だ。
メモは今握り締めているだけではなく、実はポケットにも多量にねじ込まれているし、調べなければならない事もある。
――何処の鬼軍曹だあんたは。
元々睡眠を取ろうと思って戻ってきた訳ではないが、居眠り位はいいかも知れないというナガレ軍医のせこい計画は潰えた。代案はたった一つ、『徹夜』。
それでも休みをくれるのだ。礼は言っておくべきだろう。
「…ありがとうございま」
「その代わり、明日明後日の病棟回診をして下さい。私はちょっと他に用がありまして」
「……はあ」
休みをやるといった先から仕事を頼むとはどういう了見か。そもそも、ドゥーマの言う『ちょっとした用事』はいつも謎に包まれている。ハルトを呼びつける時も『ちょっと用を頼まれてください』だとか『時間は取らせないから、ちょっと来てください』だとか『ちょっと手伝って。簡単だから』とか、何をさせられるのかがさっぱり解らない理由ばかりだ。
「疲れた時は寝てばかりじゃ駄目ですよ。少し運動すると良いんじゃないかな、緊張した躯が解れるから。では少佐、また」
「はあ…。おやすみなさい」
寝ないが。
けれど運動するのは良いかも知れない。兵士たちがやっている様なマラソンや腕立て伏せは無理だが、軽いものなら出来るだろう。
例えば射撃とか。
「射撃か…。…いいね」
あれならすっきりするし、手伝ってやれば非力なアシュレイでも出来るだろう。
悲惨で孤独な修羅場の後にちょっとした楽しみを見つけ出し、樹は自室に足を向けた。
<第3話A へ続く>
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