第1話 「お前に頼みたいことがある」
By オガチョ
先に相手に気付いたのは、樹の方だった。
混み合った食堂の中をゆっくりと歩いてくる金髪の長身を見やり、樹は思わず苦い笑みを浮かべる。
いつものごとく気だるそうなその足取りからは、覇気や気合いといったものがゼロキログラム。紺碧の軍服は一体何の為だと、問い質したくなるほどだ。よくあれで少佐などという地位が務まるものだと、樹は心の中で肩を竦める。と同時に、それはそのまま自分にも当てはまるのだと思い至り、軍人なんてそんなものかと、また苦い笑みを浮かべた。
「ここ、空いてる」
樹が軽く手を挙げたところで、ようやく相手もこちらに気付く。かと思うと、彼は眉間に皺を寄せ、バニラアイスをスプーンでつついている樹を軽く睨んだ。
「っだよ、軍医がこんなとこで油売ってんじゃねぇよ」
相変わらず横柄さ全開の態度で、相手はそれでも樹の方へと近付いてくる。樹は彼を見上げた。相変わらず、態度と同じく無駄に背の大きな奴だ。こいつとリュアー、どちらの方が高さがあるのだろう、などと詮無いことを今さら考えてみた。
他の男と比較することを、リュアーは怒るだろうか。ハンカチ噛みしめて女々しく嘆く自分の恋人の姿を思い浮かべ、樹は今度こそ口元を緩ませた。それを、目の前の男は目ざとく拾う。
「何だよ、人の顔見て笑うなんて気持ち悪ぃな」
「あんたのことを嗤ったわけじゃないよ。気にするな。それよりあんたこそ、こんなとこに足運んでる暇あるのか、ハルト・シュタイナー少佐?」
にやりと上目遣いに相手を見やってから、樹はバニラアイスを口に含んだ。リュアーならば一瞬で心を砕かれるであろうその視線をさらりと受け流し、ハルトは椅子の背もたれに体重を預けて脚を組む。嫌味なくらいに長い脚を。
「オレはいいんだよ、優秀な部下がいるから。あいつらに押しつけときゃ、何とでもなる」
優秀な、のところを強調しながら、ハルトは面倒そうに手を振った。樹は、あぁと目を丸くする。
「ゲイラー大尉のこと? あの人、そんな優秀なんだ。俺が聞いた噂では、あの人こそよく食堂に入り浸ってるって……」
「違う、あいつじゃない」
切って捨てたハルトの表情は、“部下”の評価を下すにはあまりに緊張感に欠けていた。
「あいつが優秀なわけあるかよ。オレらの代わりに動いてるのは、その下の奴らだ」
耳の後ろを掻きながら、事も無げにハルトは言う。ハルト・シュタイナーとロウ・ゲイラー。陸軍の名物コンビが生み出す伝説の陰には、彼らの部下の涙ぐましい努力があるのだ。顔を見たこともない陰の立ち役者たちに、樹は深い同情と賞賛の念を送っておく。
「あれだ、やっぱりオレには内勤なんて向いてねぇよ。書類との格闘はもうたくさんだぜ」
ぶつぶつと一人で呟いてから、それより、とハルトは樹に向き直った。彼が素早く周囲に視線を配ったことを、樹は見逃さない。食堂内が依然として賑やかなことを確かめると、ハルトは口を開いた。その声音はそれでも、先ほどよりはやや抑えがちだ。
「お前に頼みたいことがある」
同じ色をした、互いの薄氷の瞳がぶつかる。樹は片眉を上げて、相手に先を促した。それを受け、ハルトがゆっくりと口を開いた。彼にしては珍しい、えらく躊躇いがちな様子で。
「頼みって言うのは、あいつの……あの変態軍医対策のことなんだけどよ…」
その言葉に、樹はあからさまに顔をしかめて見せた。
ハルトの言うところの“変態軍医”とは、樹が勤務する陸軍施設病院の軍医のことで、他でもない樹の直接の上官に当たる。まだ若い身でありながら医者としての腕は確かで――もっとも、樹自身の持つ経歴の華やかさとは比べるべくもないが――、軍務も着実にこなす有能な人物である。それにも拘わらず、少々――否、かなりの変わり者で通っており、その対応には、樹も毎度のことながら顔が引きつる思いをしているほどだ。
そんな厄介な人物の絡んだ頼みごとなど。
彼とは仕事外ではあまり関わり合いたくない、それが自分の本心である。樹の無言の拒否反応に、ハルトは慌てて樹を抑える仕草を取った。
「待て…! 最後まで話を聞け!」
樹がしぶしぶ頷くと、ハルトは大きな体をテーブルに伏せて低くし、さらに声を潜めて先を続けた。その姿は、普段は厳格辛辣で知られる“鬼のシュタイナー少佐”にはとても見えない。
「お前のとこの変態軍医な。オレ、あいつに呼び出し食らっちまったんだよ。なんか、話があるとかないとか。――お前、何か聞いてないか?」
「あれじゃないの、医務室の薬品を掻っ払ってたのがバレたんじゃないの?」
「いや、今更そんなことに説教垂れたりしねぇだろ。あいつだって黙認してるんだしよ」
「じゃあ、ロウ・ゲイラー大尉のサボリ癖について、上から苦情が来たとか?」
「あってもおかしくねぇ話だが、ロウの奴は上に目を付けられるようなサボリ方はしない」
あいつは要領よく手を抜くんだ、とハルトは付け加えた。
「えー? じゃあ俺には見当もつかないよ。あんたこそ、自分で心当たりはないのか?」
「ない」
きっぱりとした断言。本人の自覚がないだけじゃないのかと樹はこっそり思ったが、黙っておいた。
「分からないなら、先生本人に訊いてみれば?」
「バカかお前。それをするのが死ぬほど嫌だから、こうしてわざわざ頼んでんだよ」
およそ他人に頼んでいるとは思えぬ尊大さで、ハルトは眉間に皺を寄せて樹を睨む。樹はやれやれと肩を竦めた。
「――で? ワタクシは貴方様の為に、何をして差し上げたらよろしいのでしょう?」
目一杯、皮肉っぽく言ってやる。しかしそれくらいでたじろぐハルトでもない。彼は口の端をにやりと上げると、軍服の胸ポケットから煙草を取り出した。箱の口を、こちらへと向けて寄越す。彼なりの気持ちなのだろう。せっかくなので、樹はその好意を受けることにした。自分がいつも吸っているものとは、全く違う銘柄ではあるけれども。
互いに火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出してから、ハルトが口を開いた。
「あいつが何でオレを呼び出したのか。この際、それは分からなくてもいいとしよう。問題は、どうやってその呼び出しを振り切るか、だ」
「ドゥーマ先生は、あんたの上官でもあるだろ? なのに、あくまで呼び出しに応じないつもりなのかよ」
ドゥーマというのは、その“変態軍医”の本名だ。ミハイル・ドゥーマ軍医。仮にも、階級は陸軍中佐だ。
呆れたような樹からの指摘に、ハルトはうんざりした表情を見せた。力なく、その口から白い煙が漏れ出る。
「あいつからの呼び出しには、ろくなことがない。昔っから、上官の権威を嵩にきてこっちを振り回しやがる」
あぁ、と樹は合点した。
「そういやあんた、先生の“お気に入り”だったな。お気の毒に」
揶揄を孕んだ樹の口調に、ハルトがじろりと鋭い視線を寄越してくる。
「それで、だ!」
過去の苦い記憶を振り切るかのように、彼は語調を強くした。
「オレがあいつの呼び出しに応じられない状況にあると、お前からあいつに伝えておいてほしい」
「応じられない状況? 一体どんな?」
「それを考えるのが、お前の役目だ」
いつからそんな役目が樹に与えられたのか知らないが、ハルトは当然のようにそう言い放った。
「なんかあるだろ、ほら、また前線に出たからしばらくは帰らないとか。すっげぇややこしい任務を任されたから、当分は隠密行動を取ってるとか」
「なんだ、自分で考えられるじゃない」
「バカか! お前も考えるんだよ!」
相当に切羽詰まっているようだ。ハルトが過去にドゥーマ医師から受けた諸々は、よほど彼の心にドゥーマへの苦手意識を刷り込んだと見える。
樹はぼんやりと宙空を眺めながら、煙草に唇を付ける。そしてその目を僅かに細めた。
「あんたが呼び出しに応じられない理由ねぇ……。どんな言い訳並べても、どうせ、また機会を改めて呼び出されると思うけど」
「だよなぁ。……ったく、あいつのしつこさは何とかならねぇもんかな」
「いっそ、戦死したことにしとけば?」
半ば投げやりに、樹は呟く。気付けば大部分が溶けかかっているバニラアイスを、煙草に添えているのとは反対の手で恨めしそうにつついた。目の前では当のハルト本人が、なるほど戦死か…などと、腕を組んで考え込んでいる。どうやら、かなり相当に非常に切実に切羽詰まっているらしい。
しばらくの間、頭を捻っていたハルトだったが。
「なぁ、こういうのはどうだ?」
名案とばかりに身を乗り出してくる。
「お前のとこの助手に、見栄えだけはいいのが一人いたよな? そいつに頼んで、ドゥーマに誘いを掛けてもらうんだ。あの変態軍医の意識を、少しでもオレから逸らせることができればいい」
もはや思考能力までもが落ちたか。樹は大仰に溜息をついて見せた。
「アシュレイは女の子だぞ? その手が先生に通用しないことは、あんたが一番よく分かってるはずだろ? ――それに、だ」
煙草を挟んだまま、右手の人差し指をハルトの眼前に突きつける。
「あんた、その依頼の為に高級車一台くらいは用意できるんだろうな?」
質問の意味が分からず怪訝そうな顔をするハルトに、樹はその人差し指を振って見せた。それはまるで、銀幕世界の茶目っ気ある女優――もとい、俳優のように。
「アシュレイへの依頼の報酬だよ。彼女は最低でも車くらいは要求してくるはずだ」
「はぁ!? 依頼料が車だと!? 何様のつもりだ、その女!」
「彼女は、自分の女としての価値を熟知しているからね」
樹の平然とした言葉に、ハルトは今度こそ頭を抱えた。
「くそー、結局、何の打開策も生まれないままかよ」
懊悩するハルトを横目で見やりながら、樹は傍らの灰皿を引き寄せ、煙草を押しつけた。そして立ち上がる。
「まぁ、なるようになるんじゃないの?」
そしてハルトではなくその背後に視線を据えたまま、軽く会釈し、にっこりと微笑む。先ほどまでハルトに向けていた呆れ顔とは全く異なる、仮面のように均整のとれた笑顔。
嫌な予感を察したのだろうか、ハルトも恐る恐る、自分の背後を振り返った。振り返り、そして。これでもかと言うほどに顔をひきつらせた。ややあってから、ようやくのことで掠れた声を絞り出す。
「てめぇ…ドゥーマ……」
二人の視線の先にいたのは、他でもない、渦中の人ミハイル・ドゥーマ軍医。騒がしい食堂の中にあって、どこか静かなる空気を身に纏わせた男。
彼は二人に向けて、極上の笑顔を見せた。しかし眼鏡の奥の目は笑っていない。いつものことだ。
「おやおや、ハルト・シュタイナー少佐。ちょうどよかった、私はあなたを探していたんですよ」
朗らかな声音。こちらへと歩み寄ってくる。思わずといった形で、ハルトが樹の方を見上げた。その表情はまさに、溺れかけて助けを求める者のそれだ。しかし樹はその表情に対し、菩薩のごとき穏やかな笑みを返して見せた。
「それじゃあ、あとはお二人でごゆっくり」
笑顔のままにそう言うと、テーブルの上のバニラアイスを回収し、ドゥーマ医師に自分の席を譲る。
「おいっ! てめぇ、こら! 待ちやがれ!」
ハルトが哀れっぽく叫ぶが、樹は振り返らずにその場を離れた。
「このやろ、てめ…! この薄情者! 覚えてやがれー!!」
食堂内に“鬼少佐”の悲劇の断末魔が響きわたった後、樹が去りゆく背後からは、ドゥーマ医師のいやに穏やかな声が聞こえてきた。
「探しましたよ、ハルトくん。いや、特にこれといって用があるわけではないのですけどね……」
樹は心の中で、ハルトに対して合掌を送っておいた。できる限りの、憐れみを込めて。
<第1話 終>
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