第2話 「取っといてくれたの」
By 樹流
その日も樹は士官用食堂に来ていた。病院の職員食堂とは少し離れていて、煩いしむさ苦しいが、樹は頻繁に此処を訪れる。
別に必ず付いてくるデザート―――どうやら食後に甘いものがどうしても食いたいと、しつこく要求した輩が居るらしい。誰かは調べなくても明確だ―――が目的なわけではないし、特別旨い事も無い。
強いて言うなら、こっちの方が面白い人間が多い。
「今日もこちらですか、ナガレ軍医」
顔なじみになった若い給仕係が、笑顔で巨大すぎる鍋からスープを掬っている。襟章は上等兵。
赤っぽい髪にくすんだ緑色の目が印象的な、やや小柄な青年だ。
「少なめに盛ってくれる?」
「そう仰るのは、あなただけですよ。パンも一個だけですか、相変わらず少食ですね」
もっと食わなきゃダメですよ、と言いながらも、普通の七割程度にトマトと豆のスープが入った皿をトレイに載せてくれる。
その後も順番にカウンタを回り、トレイの上にはパンとサラダとスープと鶏肉のソテーと、プディングまでが揃った。
「どこのカフェのランチだか…」
食器を白い陶器に変え、ほんの少し盛り付けを変えればそれなりには見えるだろう。味はやっぱり男っぽいが。
一度兵卒用の食堂にも行ってみたが、こことは比べ物にならない程悲惨なメニューだった。
豆どころか塩湯のなかに玉ねぎとベーコンらしき何かが多くて三切れ浮いた液体に、百年位保存するつもりらしい硬いパン。おそらくメインだろうと思われるのは、酷い癖のある『何かの肉』を焦がすのが目的としか思えない焼き方をした物だった。
あまり食事には気を払わない樹もこれには辟易して、それ以来一度もそこへは行っていない。
それでも下っ端たちは盛られる量が少ないと給仕係に文句をつけたり、余りを取り合って小規模な賭けをやっていた。
戦争なんてやっていても、前線以外は結構平和だ。
「おい、ぼさっと立ってんなよ」
樹ののんびりとした場違いな思考は、背後の高い位置から掛かった声に遮られた。
此処で自分にこんな声のかけ方をする人物なんて、一人しか居ない。
「これは失礼致しました、ハルト・シュタイナー少佐」
普段はやらない極上の笑みと共に振り返った先には、自分と良く似た瞳をした金髪の男がトレイを片手で掲げて立っている。
「言ってる間があったら退けよ、ナガレ軍医少佐」
樹がわざとフルネームに階級付きで呼んだのに気づいたらしく、向こうも階級付きで呼んでくる。
但し、この辺りの人間には発音しにくいらしいファーストネームは省かれた。
「空いてる席、知らない?」
自分よりも数段高い位置にある瞳をわざと上目遣いに見上げてみたが、ハルトは何のリアクションも起こさない。
珍しいやつ。
大概の人間はどぎまぎするか、或いはあからさまな嫌悪の表情を見せるかなのに。
「…俺の前」
空いた手で指した先のテーブルには、ハルトが好んで吸う赤い煙草の箱と灰皿、その向いにはライターが置かれている。
「とっといてくれたの」
「たまたまだ」
「素直じゃないね」
「誰が」
短く会話しながら歩いていく金髪と銀髪の二人に、周囲の人間が羨望と少しの疑惑の眼差しを寄越す。
厳格で辛辣で、若くして少佐まで階級を上げた正統派ハンサム顔のハルトと、更に若い癖に少佐扱いの医師で、おまけに女優も逃げ出すんじゃないかと言われる程“美人”な樹は、大概セットで食事を摂っている。
しかし、目を惹く原因は容姿や経歴だけではない。樹のハルトに対する親しげな態度と左の薬指に嵌っている指輪だ。
医務室で医師として働いている時の樹は腕も良くて冷静で厳しく、にこりともしない。それが華やぐ様な笑みを全開で、いつもは頭のてっぺん近くで纏められた髪を何故か解いて、繊細そうな細い指で弄びながらハルトと顔を寄せてこそこそ何かを話している。
軍人と医師では作戦も何もないだろうし、もしそんな話題だったとしても食堂なんて不特定な人間の居る所では話さないだろう。
先日などはハルトが「待て薄情者」と、怒っているらしいのに涙目で叫んでいるところが何人かによって目撃された。
丁度その少し前に、樹が自分の助手と称して少女の様な見かけの女医を呼び寄せた事も在って、一部では様々な憶測がこっそり飛び交っている。
女医と樹は相当親しいらしいが彼女の指には指輪なんてなかったから、樹の指輪の人は別人に違いない。
そもそも樹は女性には興味が無いらしいが、同じ様に指輪をしている変態医師、ドゥーマの好みからは外れているらしい。
樹に告白をした、あらゆる意味で勇気ある下っ端が居たらしいが、『決まった人がいるから。それに自分より背の高いひとが好きだから』と、すげなく瞬殺されたそうだ。
どうやらやたら背の高いシュタイナー少佐には、大切な人間がいるらしい。
そのシュタイナー少佐が、街の雑貨屋で髪留めをしげしげ眺めていたのを見た事がある。買ったかどうかは誰も知らないが、数日後に樹がそれと良く似た細工の髪留めをしていた。
『らしい』とか『様だ』で構成された話は微妙に繋がっていて、信憑性はゼロでもない。
もちろん、本人たちはそんな噂なんて知る由も無いから、今日も向かいあって食事をしている。
「お前、その長ったらしい髪どうにかしろよ。鬱陶しい」
スープを掬ったスプーンで指されても、樹は嫌な顔ひとつせず、パンを小さくちぎって口に運ぶ。
「切れない理由があるんだよ。それに、仕事中はちゃんと邪魔にならない様にしてるさ」
「邪魔とかじゃなく不謹慎だ」
「そう? 向こうじゃ誰もなにも言わないよ」
「あの変態がよく許してるな」
「俺、優秀だから。知ってた? 俺、十代で医師免許取ったんだ。その上博士号持ちだし」
「けっ! 頭脳派フェチかよ。つくづく変態だなあいつも」
心底嫌そうに『変態』の部分を強調し、フォークでサラダを無造作に突き刺しながらハルトは愚痴る。
「そういや…この間…俺を変態の前に置き去りにしたろ…」
「流石に目の前からあんたを拉致ると、今度は俺が何されるか解らなくて」
「俺がどうにかされるかもとかは考えなかったのかよ! お前言ったよな、協力するって!」
小声で怒鳴る、という器用な技を披露しつつ、突き刺し過ぎて穴だらけになったレタスをヤケクソ気味に口へ運ぶ。
「……言ってない様に思うけど?」
「あの後、あいつから逃げ出すのにどれだけ苦労したと思う!」
丁寧に肉を切り分け、上品な手つきで食べていた樹は少しの間首を傾げて考える素振りを見せたが、たった一言発しただけでハルトの苦悩と苦労を切り捨てた。
「さあ」
「…お前…とことん薄情ものだな…」
引き攣った笑みのハルトを他所に、樹はあくまでマイペースに食事を続ける。
「だったらどうしろって?」
「こう…何だ…。腹の具合が悪いらしいから連れてくなとか…、熱っぽいらしいから安静にしなきゃならねえとか…」
「あの人医者だよ? 仮病なんて通じるわけないと思うけどね」
苛つきを隠そうともしない表情で煙草を銜えた男に、ごく自然な動きで樹は火を差し出す。
「……超機密で重要な極秘作戦の話してるから、とか」
細い手の中の高級品にハルトは一瞬眉を顰めたが、何も言わずにそこから火を貰う。
「特務の奴からオファーがあったとかよ」
「あんたと俺が? あると思う?」
「………無えな…」
がっくりと項垂れてしまった金髪頭に心底呆れた眼差しを向け、樹は煙草を取り出して火をつける。
しばらく黙って吸っていたが、宙を見つめて数度瞬きをするとハルトに向き直り、空いた手で髪の先を弄びつつ、たいして名案でもなさ気に言い出した。
「……ああ、諦めそうなのがひとつだけあるわ。確率低いけど、当たればきっと一生付きまとわれないで済む」
「!!」
一生付きまとわれない、に激しく反応したハルトは身を乗り出して先を促す。
「何だそれ! 教えろ!」
「けど…。どうだろうなあ……俺的には構わないけど…外したら最悪だしなあ…」
目線を遙か彼方へ泳がせつつ、樹は暢気に煙を吐く。
「奴に構われずにすむなら、何だろうが最悪よりマシだ!」
「そお? 結構きついよ? いろんな意味で」
「あれの傍に居る事に比べりゃ、きついもクソもねえ、特攻だって屁以下だぜ」
「下品だな…。じゃ言うけど、引くなよ?」
「早く言え! こうしてる間にも奴が来るかも知れん」
この間の事が相当堪えているのか、辺りを素早く見回しながら姿勢を低くしてしまう。まるで小心者の二等兵の様だ。
鬼だとか何だとか言われているシュタイナー少佐も、案外可愛いところがあるのかも知れない。
根元近くまで減った煙草を灰皿で押し潰しつつ、樹は内心でそう思ったが、口には出さないでおいた。
「俺を口説いてる最中だから邪魔するなって言えば良い。それが厭なら俺に熱烈に口説かれてるとか。或いは既に口説き落としたから、今晩どっちの部屋で過ごすか早速相談してたとか」
明日の訓練は〇九〇〇開始で内容は射撃と格闘。各自準備運動は事前に済ませておくように。遅刻者を出した班は全員で腕立て200回。
そんな業務連絡の様にあっさり樹は言い放ち、新しい煙草に火をつける。
「おま…お前…」
「いくらあの人でも、人の恋路までは邪魔しない筈だ。これでもあんたを連れ去ろうとしたら、俺から愛しい恋人を取り上げるクズだ。いや、もっと小さいプランクトンか何かだな、うん」
「こ、ここここ恋人とか言うな! 有り得ん! 絶対無い!」
「あ…。やっぱり引くし」
「引く以前の問題だ! そもそもお前、その指輪の相手に申し訳ないとかそう言うのは無えのか!」
「気づいてたんだ?」
驚いた様に眉を上げ、頬杖をついて樹は微笑む。
「俺はそこまで観察力の無い人間じゃねえ!」
「…気になる? 俺にこれくれた人」
またもあの意味深な目つきでハルトを見上げ、薄い口唇の端を吊り上げる。
「ならん! お前が誰から指輪もらってようが、物凄くどうでもいい!」
「なんだ。…つまんね。あんたなら構わないかと思ったのに」
「は?」
「あんた位頭も顔も良い人間なら、俺も相手のしがいが有るなって」
「何の相手だ!」
「へえ…、敢えてそれを聞くの」
「聞きたくねえよ! 大体お前、あのチビと付き合ってんだろうがよ! どんな手段つかったか知らんが堂々と女なんて連れ込みやがって!」
「チビ…。あぁ、アシュ? あいつああ見えて割と優秀な上に結構容赦ないから、チビとかどうこう言ったの知られたら惨殺されるよ?」
「優秀かどうかなんて関係あるか! そもそも此処は軍隊だぞ! 女が居てどうする!」
「あいつが先頭切って敵に突っ込むわけじゃなし」
「俺は風紀的な事を言ってんだ! しかもあの女、お前とドア一枚で行き来できる続きの部屋だって聞いたぞ!? 一体何してやがんだお前ら!」
「ご心配無く、あいつと寝たりなんてしないから。それが一番安全だってだけで…」
「寝るとか言うな! 顔に似合わず下品だな!」
「この顔好き?」
「好きじゃねえバカ!」
食堂中に響き渡る程大きな声で樹を怒鳴り付け、おまけに椅子を派手に倒して立ち上がったハルトにそこに居た全員の視線が集中する。
しかも、二人の半径3メートル以内には誰も居ない上、誰かがスプーンでも落としたのか、小さな金属音が聞こえる程に場は静まりかえってしまっている。
「あ…」
「…そう…」
俯き、ぼそりと呟いた樹はのろのろ自分とハルトの食器を重ねてトレイに載せ、盛大に溜息をついて立ち上がる。
「ごめんね、気付かなくて」
沈んだ声とは正反対のとてつもなく柔らかい笑みをハルトへ投げかけ、返却カウンタへ向かう白衣の背中を同情と憐れみの入り混じった沢山の眼が追う。同時にあちこちからさわさわと内緒話が聞こえ始め、ハルトと樹を交互に見たり、何人かでかたまって何か話し始めた。
「ごちそうさま」
トレイを返すといつもの様にポケットに両手を突っ込み、重い足取りで樹は出口へ向かう。
流石にまずいと思ったのか、呼び止めようとハルトは口を開きかけたが、部屋中から非難の眼差しを浴びてしまいあっさり機会を失った。様々な意味で事態は最悪だ。
いくらなんでもありゃ酷いよな、とか、あんな奇麗な人振るなんて有り得ねえとか、振るにしても言い方あるんじゃねえの、とか。ごく稀に、いくら美人でもやっぱ男同士は不味くないかなどの正当な意見もあるが、場の雰囲気は完全に「振られたらしい」樹を哀れんでいる。
もう何から説明すべきなのかさえ判断できず、金髪をかき回しながら『軍一番の美人をこっ酷く袖にした最低男』ハルトはその場に蹲ってしまった。
――違う! いくら顔が奇麗で細くて髪が長くてマイナスイオンを発していても、あいつは男で付く物ちゃんと付いてる筈で、しかも俺には別に正式に申し込んだわけでも結婚式用の指輪をやったわけでもないけど嫁さんにしたい女が田舎にいて…
言葉を発する事も出来ないハルトの心の中は、既に一種の走馬灯が猛スピードで回っている。
――嫁さんか…そういやあいつの作った料理はなんでも旨かった。きっと作れないものなんてないんだろう。子供はきっとあいつに似て、のほほんぼんやりしてる癖に気が強いよな…
そんなささやかな男のロマンを知るはずも無い周囲は、相変わらず黙りこくったまま最上級な軽蔑の眼差しでハルトを批難し続けている。
「…あ、あの…。ナガレ軍医」
恐ろしく静かな中、しょげきった様子の樹に声を掛けたのはあの赤毛の若い上等兵だ。カウンタの小さな窓から身を乗り出し、まっすぐ樹の背を見つめている。
「なに?」
僅かに擦れた声で小さく返事をし、樹はほんの少しだけ振り返る。
「えと…その…。僕ちょっと風邪っけで…後で診てもらっていいすか!」
給仕が風邪気味でどうする、の声は一つも無く、それどころか「いいぞ若造」「よく言った赤毛」「お前はこの瞬間だけ、中将の価値がある」などの賞賛が小さく上がる。
「良いよ。診てあげるから仕事片付いたらおいで」
幾度か瞬きをした樹がふんわり笑って申し出を承諾すると、赤毛は緊張しきっていた顔をぱあっと綻ばせた。
「ありがとうございます! 絶対行きますから!」
「じゃ、後でね。…ああ、君の名前しらないや。教えてくれる?」
あいつナガレ軍医に名前聞かれたぞ! と誰かが大声を出し、場は一気にざわつき出した。
「ま…マイヤーです! テオドール・マイヤー!」
「これでカルテを見ておける、ありがとう」
感激で泣き出しそうなマイヤー上等兵に向かってにっこり微笑み、樹はゆっくり出口へ歩き出す。
そのまま去って行くかと誰もが思ったが、廊下へ出る直前でふと立ち止まり、背中を向けたままですっと左手を揚げて明るく言い放った。
「俺は第三診察室に居るからね。テオドール」
「は……はい!」
ファーストネームで呼ばれた幸せいっぱいの給仕係の声は、険悪だった雰囲気を一気に吹き飛ばした上、ハルトを更に追い込んだ。
――違う! 何かが激しく間違っている! 正しいのは俺だ! 絶対俺は正しい!
しかしこの状態では何を言っても逆効果にしかならない。自分の悪者度を高めるだけだ。
もう今日は午後の色々は全部さぼって寝てしまおう。俺には休養が必要なんだ。
そう決め込み、蹲っていたハルトは勢い良く立ち上がると、樹が出ていったのとは反対側の出口へ向かって猛然と歩き始めた。
相変わらず視線は痛いがもうどうでもいい。早くこの場を抜け出したかった。
しかし。
いつもより倍以上の距離を感じる出口までようやく辿りついたハルトの肩を、誰かがぽん、と叩いて呼び止めてしまう。
「何だよ!」
半ば八つ当たり的に叫んで振り向いたハルトは、今日何度目かもわからない全身硬直に陥った。
「…………!」
視線の先には菓子の詰まった紙袋を抱えた“名コンビ”の片割れが無表情に立っている。
「…ロウ・ゲイラー…」
すっかり忘れていた。食堂はこの男がもっとも長い時間滞在している場所なのだ。今日もずっと見かけなかったから、ずーっとここに居たに違いない。
「これ」
やはり無表情に、しかし口をもぐもぐさせながら短く言うと、何かをハルトの手に握らせた。
「軍医どののお忘れ物です。お困りでしょうから届けてあげてください」
さらりと言うと、ハルトを追い越して部下は去った。
呆気に取られて拒否する事も出来なかったハルトが手を開くと、樹が愛用している銀のジッポが鈍い光を放っている。
がっくりと肩を落としたハルトはすごすごと出て行き、残った者の間では、一体何日後に樹の手にジッポが戻るかの賭けが盛大に始まった。
軍隊も、最前線以外は割と平和だ。
<第2話 終>
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